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元東京ヤクルト、上田剛史、YouTube開設で感謝の言葉。戦力外通告から現役引退まで。今、思うことを激白しました。

東京ヤクルトスワローズから戦力外通告〜引退を決めた上田剛史選手の独占取材をしました。

 

同郷のよしみ、また我が息子の先輩であった上田剛史選手が東京ヤクルトスワローズから戦力外通告をうけ、現役引退をしました。
2020/11/11当時、彼は気持ちの整理がつかず、記者団のインタビューに答えられない精神状態であったそうです。しかし、今現在、彼の気持ちはかすかに整理がついており、YouTubeにてまとめられております。

この動画も、実は私が作らせてもらい、手作り感いっぱいで、恐縮してしまうのですが、今、音を出せない環境にいらっしゃる方のために、文章に起こしました。

2020/11/11 戦力外通告。


ヤクルト一筋14年の上田、まさかの戦力外に絶句。
涙目で「整理がついていなくて…

私もYahooニュースを見て目を疑いました。


なんという球団だ!東京ヤクルトって、信じられない!

そんな気持ちを抱いていましたが、上田剛史本人の人生について考えてみると、30歳を過ぎたばかりであり、まだやり直しの聞く年齢なのですね。

違う人生に夢を託すにしても遅すぎる年齢ではないことに気づきました。

もしかしたら球団側の配慮かもしれません。


そして、ほとぼりが覚めた頃、上田剛史本人に連絡してみたのです。

 

 上田剛史、14年間の感謝。

 

こんにちは。元東京ヤクルトスワローズの上田剛史です。
本来ならばお世話になった方に直接、お礼を言わなければならないのですが、このような形での挨拶になったことを大変申し訳なく思います。
2006年、高校生ドラフトで3位指名を受けて東京ヤクルトスワローズに入団しましたが、プロの世界がこんなに厳しいとは全く思ってもいませんでした。
このままではいけないと危機感を持った僕は、プロ入り3年目のオフ、断られることを承知で青木宣親選手の合同自主トレに参加したいと申し出ました。
青木宣親選手は、こころよく当時の僕の申し出を受け入れてくれ、その後も合同自主トレに参加させてもらいました。
このことがきっかけとなり、僕は、青木宣親先輩から、たくさんのアドバイスを受け、プロ野球界で長く生き延びられる練習法や、考え方を吸収することとなりました。
僕は外野手のイメージがつよいと思いますが、実は高田監督時代にサードで一軍デビューをしたんです。
次の小川監督時代、監督には迷惑ばかりかけていたのですが、小川監督は、打てない僕を辛抱強く、我慢に我慢を重ねて起用してくれました。本当にありがたかったです。
その時、一軍でやっていけると自信がついたのも事実です。
真中監督時代、リーグ優勝を経験させてもらい、日本シリーズでもスタメンで使ってもらいました。2015年の優勝経験は僕にとって一番忘れられない思い出です。本当にありがとうございました。
そして再度、小川監督が就任しましたが、もう一度、一軍で試合に出れるような選手になれ!とアドバイスいただき、守備固めや代走で使っていただきました。
しかし、最後の最後までチャンスを掴み取ることができず、本当に申し訳なかったです。
そうやって僕みたいな選手にたくさんの指導をしてくれたコーチや先輩方がいたからこそ、僕は14年間プロでやってこれたのだと思います。
自分は、本当に野球バカで、ろくに勉強もしてこなかったので、両親にも心配や迷惑をかけてしまったのですが、プロに入って以降、少しは親孝行できたのではないかと思います。感謝もしています。
現役最後の一年間は、高津監督と野球をさせていただき、不安もありましたが、高津監督には、僕のキャラクターを気に入ってもらい、ベンチのムードメーカーとして頑張って欲しいと言われ、その言葉で僕は救われました。でも、結果を出すことができず申し訳なく思います。
14年間のプロ野球選手人生で、一番嬉しかった経験は、自分の応援歌ができた時と2015年にリーグ優勝を決めて「日本シリーズ」にスタメンで臨めたことです。
自分の応援歌ができて打席に立った時は、本当にプロ野球選手になったんだな、と実感しましたし、日本シリーズでは毎打席、地鳴りのような応援をいただき、鳥肌が立ちました。
それは、今でも忘れることができません。ファンの方々には本当に感謝しています。
実際、戦力外通告を受けた時、僕は本当に元気がなかったんですよ。自分が何をすれば良いのかもわからず、悶々とした日を送っていました。
気持ちの整理がついてなかったのも本当ですしネット上で「上がっているコメント」も全く見ていませんでした。
周りの人にそのこと(ネット上のコメント)を教えてもらい、東京ヤクルトスワローズファンの、僕の引退を惜しむメッセージやコメントを初めて読み、大変勇気をもらいました。正直、僕はそこまで惜しまれる選手ではないと自分では思っていましたので、驚きました。心から嬉しかったです。気持ちも少しづつ前向きになりました。

プロに入って、僕にはたくさんの仲間ができました。
可愛がってくれた先輩方、可愛がってきた後輩たち、一生の財産を得ることができました。
今後も仲良くやっていきたいのでよろしくお願いいたします。
14年間、僕を育てて下さった東京ヤクルトスワローズ球団には、心から感謝しております。
大した成績も残していないし、あまりチームに貢献もすることはできなかったのですが、それでも、ここまで選手としてプレーさせていただきまして、本当にありがとうございました。
 

僕は東京ヤクルトの優勝、日本一をもう一度見たいですし、今後も応援を続けていきます。
最後になりますが、ファンの方々、14年間も応援してくださり、本当にありがとうございました。
今後は東京ヤクルトの上田剛史でなく、ふつうの上田剛史として応援よろしくお願いいたします。

 

上田剛史のパフォーマンス

今後は、YouTubeもインスタも続けていくそうですが、彼のInstagram(@tsuyosahi50)はとても面白く、緊急事態宣言で自粛中のさなか、インスタライブをし、ファンの皆様を楽しませました。

本来、上田選手は、プレーでもパフォーマンスでも、見ているファンの方々を喜ばせたい、楽しませたいという事に重きをおいていたので、自分からの発信は続けて行きたいと言っています。
今後も、インスタグラムやYouTubeで私たちを喜ばせてくれるでしょう。
それはそれで、とても楽しみに待っていたいと思います。

終わりに

2020年12月。

今年も何人かのプロ野球選手がユニフォームを脱ぎました。
その親しんだユニフォームには、汗、涙、希望、苦しみ…と、数多の感情が染み込んでいることでしょう。その中の一人に、上田剛史という選手がいました。

夏の甲子園大会で、斎藤佑樹(現日ハム)からホームランを放ち、チームを大会ベスト4に導いた期待大きスラッガーは2006年、東京ヤクルトスワローズに入団しました。

自身の言う通り、大きな記録も残せませんでしたが、今年、引退します。

彼の人生は野球を通して、花開き散りましたが、その花はまだ枯れてはいません。
この寒い冬の中、多少の大きな花びらを散らしたあと、また新しいつぼみが芽吹いているのです。
次に咲く花はどのような色なのか、形なのか、まだ誰にも見えてはいません。
しかし、決して凍えることなく越冬し、ゆっくりと大輪の花を咲かせるのではないでしょうか。
私はその新しい大きな花が、どのような色をしているのか、近い将来、見れると期待して待っています。

 

 

 

 

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